text : 片岡 優子 photo : 岩根 愛
「キリシタンワンド」と「ハリのメンド」
「上五島ふるさとガイドの会」の小田こぎくさんからご案内いただき、「キリシタンワンド」と「ハリのメンド」と呼ばれる場所へ行くことになりました。
上五島の方言で「ワンド」は洞窟、「メンド」は穴を意味する。船でしか行くことができない場所です。
船の出発地となる場所、中通島の桐古里郷「古里地区·深浦」に向かいました。
中通島は新上五島町の一番大きな島で、桐古里郷は島の西側に位置します。
港に到着すると、瀬渡し船「祥福丸」が停泊していました。船長の坂井好弘さん(64歳)がにこやかに迎えてくれました。坂井さんは「カクレキリシタン」の9代目の大将(神父役)を務めています。
ハリのメンドへ
坂井船長の「祥福丸」に乗り込み、深浦の港を出港しました。
深浦の港を出て数分後、遠くの方にオレンジ色の屋根が見えてきました。
桐教会です。
船はスピードをあげて、海上をぴょんぴょんとスキップしながら10分ほど走行した。遠くの方に穴が空いた岩場が見えてきました。
ガイドのこぎくさんが「ハリノメンド」だと教えてくれました。
船はエンジンを減速してゆっくりと岩場へと近づいて行きます。
五島の荒波に侵食されて作りあげられた自然の造形物です。岩の真ん中に穴(メンド)があります。この場所は地域の人には知られた場所でしたが、若松島出身のカメラマンにより「マリア像が幼子イエスを抱いているように見える」と紹介され、人気の観光スポットになったとのことです。
船はゆっくりと動き出し、ハリのメンドの左手へと進みました。
潮が満ちている時には、この岩場の間を船が通るパフォーマンスをしてくれることもあるそうです。
筆者は以前にこの岩の間を通った経験があります。今にも船が両側の岩にぶつかりそうで胸の鼓動が高まりました。船から身を乗り出して近くの岩に身を乗り出して触れることもできました。船と岩の間隔は50センチほどでしょうか。船はぎりぎりのスリルを提供してゆっくりと進み、「ハリノメンド」の反対側へと通過しました。生憎この日は潮がひいており、このスリルの追体験はできませんでした。
「ハリノメンド」の横にある岩の左手をくるりと旋回して裏側へと船は進みました。
船がハリノメンドの裏側へと回って船が進むと間も無く、遠くの方に白い何かがある岩場が見えてきました。
ガイドのこぎくさんが「あれがキリシタンワンドです。」と教えてくれます。
キリシタンワンドへ
船はゆっくりとスピードを落とし、坂井船長は手慣れた操作で徐々に険しい岩場へと着岸しました。
隆起した岩肌がゴツゴツと垂直に切り立っていました。
岩場へと私たちが上陸すると、祥福丸はゆっくりと岸壁を離れ、海上にゆらゆらと停泊しました。
キリシタンワンドと言われるようになったきっかけ
古里地区・深浦は江戸時代の禁教期に、多くの大村藩·外海の黒崎地区から島に移住し、ひそかに信仰を守り続けた深浦家を中心とした集落。古里地区·深浦は14軒あり、ほとんどの家が深浦家と血縁関係です。昔は帳方と呼ばれた大将(神父役)の坂井さんのもとで儀式を執り行い、潜伏キリシタン期からの信仰を守っています。明治6年(1873年)に禁教令が解除された後もカトリック教会に復帰せず、独自の「カクレキリシタン」信仰を受け継いでいます。
五島にポルトガルより初めてキリスト教が伝えられたのは永禄9年(1566年)。当時五島列島を支配していた宇久氏の19代当主・宇久純尭は永禄10年(1567年)に洗礼を受け、キリスト教への信仰を奨励しました。しかし、その後の禁教令によって、キリスト教徒たちは潜伏を余儀なくされました。
1797年(寛政9年)、五島藩主の領主五島盛運は大村藩藩主・大村純尹へと移住者の受け入れを申し出ました。当時五島は捕鯨が盛んでした。そのための直接の労働力だけではなく食糧生産を始めとする様々な物資の生産が必要でした。こうして、外海から桐古里に移住してきた108名はほとんどが潜伏キリシタンです。
キリスト教禁制末期の元治2年慶応元年(1865年)3月、長崎の大浦天主堂の完成から1ヶ月後、浦上村の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」。五島からも若松村・桐の浦のガスパル与作が大浦天主堂を訪れて神父に五島に1000人以上のキリシタンがいることを告げました。そのことが禁教令の解除へと繋がるきっかけでしたが、そのために五島の潜伏キリシタンの迫害が始まり、信者たちは命の危機を感じることとなりました。
そのような中、若松・里ノ浦地区のキリシタン、山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当面の生活用品や物資を持って知る人ぞ知る洞窟での隠遁生活を始めました。
洞窟生活が数ヶ月たったある朝のこと、朝食のための煙が洞窟から漏れていました。たまたま通りかかった漁船に見つけられ、役人の知るところとなって捕らえられ、算木責めの拷問を受けた。算木責めとは三角に削った木の上に正座させ、膝の上に平石を置く残酷なものでした。命までは取られなかったものの、拷問を受けた信者たちの足には歩行ができないほど重度の障害が残りました。
これ以来、この洞窟は「キリシタンワンド」と呼ばれるようになりました。
毎年11月頃、若松郷の土井ノ浦教会の信者100名ほどが何隻もの船をチャーターしてこの岩場に集まり、祈りを捧げています。
洞窟の中へ
洞窟は隆起した岩場の凹凸により表からは隠されており、海上からはその存在を確認することは困難です。
1967年、教会が中心となって、苦しみに耐え、信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、鎮魂の願いを込めて洞窟の入口に高さ4メートルの十字架と3.6メートルのキリスト橡が建てられました。
左の写真の手前の岩場から奥手の白い十字架の真下にある洞窟の入り口まで、険しい岩場を手をつきながら進むことになります。真ん中あたりにアップダウンもあり、足を踏み外すと怪我をしそうです。
険しい岩場を進んで、やっと入り口に辿り着きます。洞窟の入り口は高さ2メートル、幅2メートルで十字架のようにも見えます。入り口から進むと高さが高くなり約5メートルほどあります。
入り口を進むと、内部は広く、薄暗く、奥行は約30メートルくらいでしょうか。
とても長く、反対側から差し込む光へと続いています。
「以前は洞窟内にマリア像のプレートが飾ってあったが、いつからかなくなった、波にさらわれてしまった。」ガイドのこぎくさんが説明してくれました。
奥の光が逆方向の入り口です。
右手に進むと、船が到着した広い岩場への出口があります。
洞窟内はゴツゴツした岩場が多く、平坦な場所がほとんどありませんでした。
この場所で身を寄せ合って眠ったのでしょうか?その先には小さな穴がありました。ここから朝食のための煙が漏れたのでしょうか。
この厳しい岩場で数ヶ月生活することを想像すると、あらゆる困難な状況が想定できました。トイレは?風呂は?魚は釣ることができたかもしれない、しかし穀物や野菜は食べることができなかったでしょう。台風が来て、波が迫ってきたらそれは死を意味します。それを覚悟でキリシタン達はこの場所へと逃げてきました。当時のキリシタンへの過酷な迫害を想像するといたたまれない気持ちになります。
「土井浦教会」横にはかくれキリシタン関連の資料を納めた「 カリスト記念館」が併設されています。若松島で殉教した伝道師「カリスト」の名を冠した記念館には、貴重なオラショやマリア像に模したと言われているアワビの貝殻などが展示されています。
坂井良弘さん
深浦の港に戻り、坂井船長にお話をうかがっていると、奥様の鈴子さんがちょうどいらっしゃいました。
坂井船長、好弘さんは五島列島の北部の島·小値賀島出身で実家の信仰は仏教でした。21歳の時、2歳下の鈴子さんと結婚し、鈴子さんの古里である古里地区·深浦で暮らすことになりました。
好弘さんは鈴子さんの宗教に関しては何も知らされず、義父の深浦福光さん(1998年に死去)が自宅で祈りをささげる姿を見るまで、カクレキリシタンの家系とは知りませんでした。福光さんは組織の七代目大将でした。
大将は代々、深浦家直系の息子か男系の親戚が務めてきました。
子どもがいなかった福光さん方に娘として鈴子さんが迎え入れられました。
組織継承のため、鈴子さんには決められた婚約者がいました。しかし鈴子さんは好弘さんと出会い結婚しました。好弘さんは結婚後、義父となった福光さんから洗礼を受けて、「カクレ」となりました。
坂井さん夫妻は5人の息子に恵まれた。長男(43歳)は小学1年の時、祖父の福光さんの養子となり、深浦家の長男となった。福光さんが86歳で亡くなった後に8代目大将となった親戚が入院し、2007年12月に好弘さんが大将となりました。深浦姓ではない好弘さんは「長男が大将を継ぐまで」という条件で引き受けました。
好弘さんは、御法度とされていたメディアにも登場することとなり、組織の信徒の中には信仰を表に出していくことに反発する人も少なくありませんでした。
メディアに登場した理由をうかがうと、
「祖先たちが大切に守ってきた信仰。(自分たちが)いないことにされたくなかった。」と好弘さんは語気を強めました。
桐教会やカトリック教徒がカトリックへ合流するように進めてくるそうですが、
自分たちの信仰は違う組織との認識です。
「自分たちは祖先が守ってきた信仰を守っていく。継承が途絶えたらそれはその時だ。」
自然に身を任せ、無理をすることはないと笑いました。
Information
祥福丸
〒853-2302 長崎県南松浦郡新上五島町桐古里郷606
自宅:0959-44-1762 携帯:090-2516-9948(前日までの予約必須)
利用料は2名まで¥8000(税込)、3名以上は1人¥3000(税込)
通常船は海上で待機している。そのため上陸は自分たちで行う。「上五島ふるさとガイドの会」などのガイドを利用すると洞窟の中まで案内してくれる。洞窟までの岩場は険しいため、スニーカーなどの滑らない靴と動きやすい服装が必要。