text : 片岡 優子 photo : 岩根 愛
上五島の方言で「ワンド」は洞窟のことです。
船でしか行くことができない「キリシタンワンド」への行き方です。
いくつかの船が出ていますが、今回は、坂井船長の「祥福丸」さんにお願いしました。
祥福丸の出発地となる場所、中通島の桐古里郷「古里地区·深浦」に向かいました。
中通島は新上五島町の中で一番大きな島で、桐古里郷は島の西側に位置します。
坂井船長の「祥福丸」に乗り込み、深浦の港を出港しました。
深浦の港を出て数分後、遠くの方にオレンジ色の屋根が見えてきました。
桐教会です。
船はスピードをあげて、海上をぴょんぴょんとスキップしながら10分ほど走行した。遠くの方に穴が空いた岩場が見えてきました。
最近観光地として注目を集める「ハリノメンド」です。
波で侵食した穴の形が「マリア像が幼子イエスを抱いている様子」にみえるとい言われています。
ハリのメンドに関して詳細はこちら ハリのメンド
船はハリのメンドの裏側に進みます。10分ほど走ると、船はゆっくりとスピードを落とし、坂井船長は手慣れた操作で徐々に険しい岩場へと着岸しました。
隆起した岩肌がゴツゴツと垂直に切り立っていました。
「キリシタンワンド」または「キリシタン洞窟」と呼ばれる岩場に到着です。
岩場へと私たちが上陸すると、祥福丸はゆっくりと岸壁を離れ、海上にゆらゆらと停泊しました。
キリシタンワンドと言われるようになったきっかけ
古里地区・深浦は江戸時代の禁教期に、多くの大村藩·外海の黒崎地区から島に移住し、ひそかに信仰を守り続けた深浦家を中心とした集落。古里地区·深浦は14軒あり、ほとんどの家が深浦家と血縁関係です。昔は帳役と呼ばれた大将(神父役)の坂井さんのもとで儀式を執り行い、潜伏キリシタン期からの信仰を守っています。明治6年(1873年)に禁教令が解除された後もカトリック教会に復帰せず、独自の「カクレキリシタン」信仰を受け継いでいます。
五島にポルトガルより初めてキリスト教が伝えられたのは永禄9年(1566年)。当時五島列島を支配していた宇久氏の19代当主・宇久純尭は永禄10年(1567年)に洗礼を受け、キリスト教への信仰を奨励しました。しかし、その後の禁教令によって、キリスト教徒たちは潜伏を余儀なくされました。
1797年(寛政9年)、五島藩主の領主五島盛運(もりゆき)は大村藩藩主・大村純尹(すみまさ)へと移住者の受け入れを申し出ました。当時五島は捕鯨が盛んでした。そのための直接の労働力だけではなく食糧生産を始めとする様々な物資の生産のために労働力が必要でした。こうして、外海(そとめ)から桐古里に移住してきた108名はほとんどが潜伏キリシタンです。
キリスト教禁制末期の元治2年慶応元年(1865年)3月、長崎の大浦天主堂の完成から1ヶ月後、浦上村の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」。五島からも若松村・桐の浦のガスパル与作が大浦天主堂を訪れて神父に五島に1000人以上のキリシタンがいることを告げました。その出来事が禁教令の解除へと繋がるきっかけでしたが、そのために五島の潜伏キリシタンの迫害が始まり、信者たちは命の危機を感じることとなりました。
そのような中、若松・里ノ浦地区のキリシタン、山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当面の生活用品や物資を持って知る人ぞ知る洞窟での隠遁生活を始めました。
洞窟生活が数ヶ月たったある朝のこと、朝食のための煙が洞窟から漏れていました。たまたま通りかかった漁船に発見され、役人の知るところとなり捕らえられ、算木責めの拷問を受けました。算木責めとは三角に削った木の上に正座させ、膝の上に平石を置く残酷なものでした。
命までは取られなかったものの、拷問を受けた信者たちの足には歩行ができないほど重度の障害が残りました。
これ以来、この洞窟は「キリシタンワンド」と呼ばれるようになりました。
洞窟の中へ
洞窟は隆起した岩場の凹凸により表からは隠されており、海上からはその存在を確認することは困難です。
左の写真の手前の岩場から奥手の白い十字架の真下にある洞窟の入り口まで、険しい岩場を手をつきながら進むことになります。真ん中あたりにアップダウンもあり、足を踏み外すと怪我をしそうです。
険しい岩場を進んで、やっと入り口に辿り着きます。洞窟の入り口は高さ2メートル、幅2メートルで十字架のようにも見えます。入り口から進むと高さが高くなり約5メートルほどあります。
入り口を進むと、内部は広く、薄暗く、奥行は約30メートルくらいでしょうか。
とても長く、反対側から差し込む光へと続いています。
奥の光が逆方向の入り口です。
右手に進むと、船が到着した広い岩場への出口があります。
洞窟内はゴツゴツした岩場が多く、平坦な場所がほとんどありませんでした。
この場所で身を寄せ合って眠ったのでしょうか?その先には小さな穴がありました。ここから朝食のための煙が漏れて漁船に発見されたのでしょうか。
この厳しい岩場で数ヶ月生活することを想像すると、あらゆる困難な状況が想定できました。トイレは?風呂は?魚は釣ることができたかもしれない、しかし穀物や野菜は食べることができなかったでしょう。台風が来て、波が迫ってきたらそれは死を意味します。それを覚悟でキリシタン達はこの場所へと逃げてきました。当時のキリシタンへの過酷な迫害を想像するといたたまれない気持ちになります。
1967年、教会が中心となって、苦しみに耐え、信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、鎮魂の願いを込めて洞窟の入口に高さ4メートルの十字架と3.6メートルのキリスト橡が建てられました。
毎年11月頃、若松郷の土井ノ浦教会の信者100名ほどが何隻もの船をチャーターしてこの岩場に集まり、祈りを捧げています。
Information
キリシタンワンド
〒853-2301 長崎県南松浦郡新上五島町若松郷
祥福丸 | |
住 所ADDRESS | 〒853-2302 長崎県南松浦郡新上五島町桐古里郷606 |
電 話 番 号TEL | 自宅:0959-44-1762 | 携帯:090-2516-9948(前日までの予約必須) |
料 金PRICE | 利用料は2名まで¥8000(税込)、3名以上は1人¥3000(税込) |
備 考REMARKS | 通常船は海上で待機している。そのため上陸は自分たちで行う。「上五島ふるさとガイドの会」などのガイドを利用すると洞窟の中まで案内してくれる。洞窟までの岩場は険しいため、スニーカーなどの滑らない靴と動きやすい服装が必要。 |
坂井船長に関してはこちら
「カクレキリシタン」九代目の大将・坂井好弘さん
通常船は海上で待機している。そのため上陸は自分たちで行う。
「上五島ふるさとガイドの会」などのガイドを利用すると洞窟の中まで案内してくれる。洞窟までの岩場は険しいため、スニーカーなどの滑らない靴と動きやすい服装が必要。