text & photo : 片岡 優子
すべての子どもたちはあたたかい愛情に包まれて生活する必要があります。
その権利を実現するために積極的に行動したのは長崎の女性たちでした。
明治期から昭和にかけて、奥浦慈恵院で働く若い女性達は報酬もなく、ただ子どもたちを育てるために農業、行商、精米所を経営し、自立できる施設·地域を目指して経費を捻出していました。
長崎は社会福祉の原点
長崎で最初に創設された児童養護施設は、長崎市の「浦上養育院」です。
明治7年(1874年)フランス人宣教師、マルコ・ド・ロ神父や岩永マキなどの女性たちにより創設されました。
五島市にも児童養護施設 「奥浦慈恵院」があります。
福江港から車で10分ほど北に進んだ奥浦地区、浦頭教会のすぐ近く、
長崎で3番目に創設された児童養護施設です。
明治10年(1877年)にパリ外国宣教会からブレル神父が上五島の中通島の鯛ノ浦に派遣され、続いてフランスからマルマン神父がやってきました。彼らは上五島の潜伏キリシタンを探出し、カトリックへと復帰させました。
明治13年(1880年)8月10日にパリ外国宣教会のフランス人宣教師ブレル神父や女性たちによって新上五島町に長崎で2番目の児童養護施設「希望の灯学園」が創設されました。
「子部屋」の創設
上五島から下五島へ布教のためマルマン神父がやってきました。
マルマン神父は福江島の最北端、間伏地区に辿り着き、浜崎ツイという21歳の娘に連れられて奥浦地区の堂崎にやってきました。
そしてマルマン神父は、堂崎の信者たちの手を借りて仮の御堂を建設し、堂崎で布教をはじめました。
江戸時代から明治期にかけて島民は厳しい年貢生活を強いられており、貧困のため、また不義の子、双子などの子供を山や海などに産み落としていました。奥浦地区・大泊の産婆さん(現在の助産師)梅木マセさんは、多数の産み捨てられた赤ちゃんを発見し心を痛めていました。マセさんの祖父は大村藩から五島へ渡ってきた潜伏キリシタンです。
マセさんから捨て子の話を聞いたマルマン神父は、明治13年(1880年)10月17日に奥浦地区・大泊の空き家に「子部屋」を創設し、間伏の浜崎ツイさんが「子部屋」の世話役になりました。
大泊「子部屋」跡地に関しては下記に詳細を記します。
「奥浦慈恵院の前身施設 大泊地区「子部屋」への行き方」
昔から村に伝わる教えを広める伝道女の役割(教え方)をしていた志の高い中学生くらいの娘たちも続々と世話役になりました。
養育院の創設
マルマン神父は明治16年(1883年)に奥浦地区・堂崎に木造の仮の御堂を建設していました。大泊の「子部屋」は子どもの数が増えて手狭になったため、仮の御堂の横に新しい「子部屋」の建設を始めました。
教会と並んで、玄関を入江に向けて南向きに建設されました。
現在の堂崎教会の祭壇にあたる場所に新しい「子部屋」があったそうです。
この頃から「養育院」と呼ばれるようになりました。
「養育院」の初代院長に浜崎ツイさんが任命されました。
御堂の建設途中で、マルマン神父は明治20年(1887年)に転任となり
後任にペルー神父が赴任してきました。
養育院の移設
ペルー神父は明治37年(1904年)に堂崎の海辺の高台に今までの3倍の大きさの「養育院」を建設しました。
詳細はこちらへ
児童養護施設 奥浦慈恵院「養育院」跡地へ
奥には、マルマン神父とペルー神父、そして子ども達の像が残っています。
マルマン神父は長崎県佐世保市の黒島が最後の赴任地となり明治45年(1912年)63歳で亡くなり、お墓も黒島教会の墓地にあります。
ペルー神父は大正7年に長崎で亡くなりました。70歳でした。
更に奥手にはマリア像に祈る少女の像があります。
海から登る朝日がとても美しいそうです。子供達はこの高台から美しい景色を見て健やかに日々を過ごしたのでしょう。
明治40年(1907年)にペルー神父が、マルマン神父が建てた木造の御堂を建て替え、現在の赤レンガの堂崎天主堂を完成させました。
明治42年(1909年)に財団法人の認可を受け「養育院」から「奥浦村慈恵院」と名を改め、国から補助を受けることができるようになりました。
里子制度の先駆け
女性たちは貧しい暮らしの中、生涯独身を貫きました。人々から独身で子どもたちのお世話をすることを理解されるどころかむしろ軽蔑を受けました。
それでも奉仕の精神で農作業、養蚕、行商などで身を粉にして働き、子供たちを育てました。
行商の主な目的は現金収入でしたが、カトリックの家庭に子供達を預けて、里子制度の先駆けのようなことをしていました。各家庭へ行商に行くことは委託した子供達が元気にしているかの安否確認を兼ねていました。
五島の島々から遠くは熊本まで子供達を里子に預けていたそうです。
行商の仕事は大正2年まで、約20年継続しました。
人材の育成と経営への努力
当時の慈恵院の子供達は病弱な子供が多かったそうです。そのため健康管理の専門家が早急に必要とされ、優秀であった浜端タカさんを経済的にも精神的にもみんなで応援して、見事にタカさんは東京女子医専(東京女子医科大学)に入学、そして卒業し、「奥浦村慈恵院」に医務室を作りました。昭和11年に奥浦診療所を開設しました。
昭和4年(1929年)、福江の精米所が売りに出ていると言う情報を得て、ペルー神父の遺産をもとに昭和4年に精米や製粉の工場を開業しました。
この精米所があった場所が現在のカトリック福江教会です。
神様は見守ってくださっているのでしょう。
タカさんが町に行き、たまたま1枚だけ宝くじを購入したところ、なんと30万円(現在の価値で約3000万円)が当たりました。
そのお金で聖マリア病院を建設することができたそうです。
昭和23年に奥浦慈恵院診療所は、現在の松山町に移転して、聖マリア病院、並びに福江修道院が建設されました。
昭和21年(1946年)に「生活保護法」の認可、続いて昭和23年(1948年)に「児童福祉法」の施工に伴い、無給で奉仕してきた女性達は養護施設職員として初めて給与を得ることができました。
この奉給により、老朽化した建物の増改築をして、昭和25年に完成しました。
福祉制度の確立に伴い、明治13年の創設依頼継続してきた各種の事業を手離し、
育児事業のみに専念することができるようになりました。
現在の奥浦慈恵院
教会堂の建て替えなどに伴って場所を転々としながら、慈恵院は浦頭教会の近く、「平和のばら保育園」と隣接した場所にあります。
以前は生活困窮家庭の子どもの受け入れが大半でしたが、現在は様々な理由で子どもの受け入れを行っています。
定員40名で、幼児から高校生までが暮らしています。
奥浦慈恵院の理念 『「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とのカトリックの愛の精神に基づき、聖母マリアに倣い、社会の必要に応え、人々にキリストの愛をもたらすよう努めます。』
その理念に違わず、事情があり親御さんと離れて暮らす子どもたちはシスターやスタッフの皆さんの温かい愛情に包まれて健やかに暮らしています。
「メディアで子どもに関する悲しい報道を見聞きすることも多くなりましたが、様々な事情があり困っていることがあれば、身近に相談できる奥浦慈恵院でありたいと思っています。」と慈恵院の皆さんよりコメントをいただきました。
参考文献:『愛の島に星がきらめく−奥浦慈恵院ものがたり− 』
出版社 : あすなろ書房 (1986/1/1)
Information
社会福祉法人 奥浦慈恵院 | |
住 所 | ADDRESS | 〒853-0051 五島市平蔵町2442-1 |
電 話 番 号 | TEL | 電話:0959-73-0055備考 |
備 考 | REMARKS | 参考文献:『愛の島に星がきらめく−奥浦慈恵院ものがたり− 』 |
出版社 : あすなろ書房 (1986/1/1) |